盲人を癒す

父と子と聖霊の御名によりて アーメン

年間30日主日B年

マルコによる福音30章46〜

 一行はエリコの町についた。

イエスと イエスを信じる人々は
カファルナウムをたち
ユダヤ地方ヨルダン川の向こうに側に行き,
エルサレムに上る途中 エリコの町に着いた
イエスと群衆がエリコを出て行こうとされたとき,
盲人が叫び出す

イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に,エリコを出て行こうとされたとき ティマイの子で,バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。

ナザレのイエスだと聞くと,叫んで,

「ダビデの子イエスよ,私を憐んでください」

と言いはじめた。

多くの人々が叱りつけ黙らせようとしたが,彼はますます,「ダビデの子よ わたしを憐んでください」と 叫び続けた。

イエスは立ち止まって

「あの男を呼んできなさい」

と言われた。

人々は盲人を呼んで言った。

「安心しなさい 立ちなさい お呼びだ」

盲人は上着を脱ぎ捨て

踊り上がってイエスのところに来た。

イエスは,

「何をして欲しいのか」

と言われた。

盲人は

「先生,目が見えるようになりたいのです」

と言った。

そこで,イエスは言われた。

「行きなさい あなたの信仰があなたを救った」

盲人は すぐに見えるようになり

なお道を進まれるイエスに従った。

ー黙想ー

まず,秋篠宮紀子さまのお父様の

ご冥福をお祈りいたします。

その霊魂が

天国で安らかでありますように

さて,

この箇所についてですが,マタイによる福音とルカによる福音,そしてこのマルコによる福音,福音記者により微妙に違います。

イエス様の生前の活動を記された記録は たくさん山のようにあって 発見された場所も 順番もバラバラだったと聞いた事がある。

そして 初代教会の弟子と信者らにより編集された聖書が 今もそのまま 世界中のベストセラーとなっている。

ん?待てよ?ちょっと自信ないな。初代教会よりずっとあとだったっけ?聖書は。

とにかく 神と人との決定的な出会いの記録 それが聖書。

本来 聖書は一つなのだが,後々になって モルモン教 統一教会 エホバなど さまざまなプロテスタント そのほかの共同体によって 独自のものがつくられた。

さらに 各々の言語によって 訳す時 それはそれは生命を削るほどの苦労によってなされた。それは時代によって 大役を任された人々の証言によって知る事ができる。数年ごとに行われる学校教科書の改訂以上の圧力 圧迫が 方々からある。

2021年はB年とされ 世界中の教会はマルコによる福音書を味わう年。

マルコ福音記者は,異邦人の改宗者に向けて書かれたものと言われている。当時,もともとユダヤ人でもユダヤ教徒でもない人々に向けたもの と言われている。

マタイ福音記者は,ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々に向けて。土着民と言ったらピンと来るかな?

ルカ福音記者は医者だったそうだが ルカによる福音書と使徒言行録(イエス亡き後の事が記録されている)を記録した記者でもある。

ルカは 華やいだギリシア文化に染まった人々に,イエスの救いはユダヤ人だけではなく 地上にいる全ての人々にもたらされたものである事,特に 弱い者 小さい者 罪人にイエスが向き合い語る場面を伝えている。

さらにルカは,イエスが,権力者らとその手下たち残酷な血に飢えた傍観者らによって十字架にかけられる、そして 三日目に復活する。そのために イエスがエルサレムに向かって旅をする姿を記している。

使徒言行録ではさらに,教会の誕生 成り立ち 弟子たちと 新たにユダヤ教徒エリートのパウロも加わり,エルサレム サマリア シリア ギリシア ローマにまで広がる様子が描かれている。

ヨハネ福音記者は,イエスのことばと行いが丁寧に 詳細に記されている。これはわたしの印象なのだけれど,例えばほかの福音記者が箇条書きだとすれば ヨハネはそれらに肉と霊を加えた というのかな。幻想的な霊的な要素を感じる。イエスは 神の独り子である確信を伝えている。ルカは 現実的だけれど 箇条書きよりは詳細で ヨハネ福音書ほど霊的ではない,そんな印象がある。

【マタイ20章29】では,二人の盲人となっている。そしてイエスは深く憐れみ その目に触れる。

【ルカ18章35】では,ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。叫び続ける盲人を先に行く人々が叱りつけ黙らせようとする。するとますます叫び続ける盲人が記されている。

マタイでは イエスが「二人の盲人」に触れることによって癒される様子。ルカでは イエスの言葉だけでたちまち見えるようになった「ある盲人」の様子が記されている。

さて B年マルコ福音記者はというと,

「ティマイの子でバルティマイ」と 極めて具体的な対象を記した。現代風に言えば「〇〇さんとこの息子の〇〇君」とかそんな感じ。

ユダヤ社会のユダヤ教徒の人々は 日本の田舎にもまだあるように,どこそこの息子のなにがし 誰それの娘のなにがし さらに遡って先祖の先祖の果てまで名前を言う。

マルコを読むと そうしたところに生まれ育った人々(弟子たちも含め)の文化風習生活様式との関連が とてもよくわかる。

「ティマイの子でバルティマイという盲人の物乞い」は 道端に座っていた。

「ナザレ村のイエス」だと聞くと「ダビデの子 イエスよ わたしを憐んでください」と「言いはじめた」

人々はこの盲人を黙らせようとした。

しかし盲人はますます「叫び続け」る。

その声は f < ff フォルテからフォルテッシモに。クレッシェンド ね。

 ユダヤ社会 今はどうか知らないけれど,当時は 律法学者をはじめ モーセがイスラエル共同体をまとめるために神とともに建てた数々の掟や規定を細々厳密に守って生きていた。とは言っても 実際それを細々守って生きられるのはごく少数の恵まれた人々だったろう。実際 彼らとて守りきっていたかといえば どうかな。

そして こうした障害や病気を患った人は 汚れた者 罪の結果によるもの などと思われ言われ 人々は近寄らなかった。律法には そうしたものに触れたり近寄ったものは あれをしてこれをしてそうしてああして それは何日間でと 身を清めなくてはいけない など さまざまな規定に縛られていた。(精神の障害と思われる人には 聖書では悪霊に取り憑かれたものとされている。エクソシストはまさにそれ。悪魔祓いは 教皇庁の許可を得たその資格のあるものしか許されていない。プロテスタントやカルトでは信者同士で行っているとの事です)

人々が叱りつけ 黙らせようとするのには ただうるさいから だけではなかったのだ。

ところがイエスは この叫び続ける盲人に マタイでは触れている。

この

救いを本気で求めるしつこさ

信じる強さ

ひたむきさ

イエスは足を止める

おそらくそれまでバルティマイは,みんなから避けられて生きてきた。災いを避けるように。人から声をかけられる 呼ばれる なんて事はなかっただろう。人々が道を通る時は 彼を忌み嫌い 避けて離れて歩いただろう。そして彼は道端に追いやられて生活をしていた。人々に叱りつけられ 罵倒され 無視される事に すっかり慣れてしまっていた。

そして今 噂に聞くイエス。

きっとこの人なら 真っ暗闇の孤独な世界から救ってくれる そして信じた。

彼は 呼ばれたと聞いただけで 踊り上がって喜んだ。まさに歓喜した。

「なにをして欲しいのか」

「目が見えるようになりたいのです」

「行きなさい あなたの信仰があなたを救った」

「行きなさい」と イエスに言われたにも関わらず,目が見えるようになったバルティマイは,イエスに従ってその旅に同行した。

生きなさい

恵みあふれる聖マリア

主はあなたとともにおられます

あなたは女のうちで祝福され

あなたの子 イエズスも祝福されています

神の母 聖マリア

罪深い私たちのために

今も 死を迎える時も

神に祈ってください  アーメン

そしてわたしがこの箇所でいつも思い出すのは,

わたしの母親らがまだ子どもの頃 よく盲人や物乞いが来ては 玄関先で三味線を弾いたり,食を求める人がいた話。昔はそうして 家々を回って歩く人たちがいたそうだ。今は セールスや詐欺師や新興宗教・カルトの勧誘 放置子が家々を巡り歩いている。

祖父は 「うるせーっ」と怒鳴って追い返した。

祖母は,小銭や,おむすびを握って持たせてやった。

そんな話

作成者: sumiremama

2回目のコロナ自粛で生活が一変‼︎ どうしてくれる