メルキゼデクの祭司職

父と子と聖霊の御名によりて アーメン

年間31主日B年

ヘブライ人への手紙7章

 このメルキゼデクはサレムの王であり,いと高き神の祭司でしたが,王たちを滅ぼして戻ってきたアブラハムをで迎えて,そして祝福しました。

 アブラハムは,メルキゼデクに全てのものの十分の一を分け与えました。

メルキゼデクという名の意味はまず 「義の王」,次に「サレムの王」,つまり「平和の王」です。

彼には父もなく,母もなく,系図もなく,また,生涯の初めもなく,命の終わりもなく,神の子に似たものであって,永遠に祭司です。

 この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。

族長であるアブラハムでさえ,最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。

ところで,レビの子らの中で祭司の職を受ける者は,同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず,彼らの兄弟である民から十分の一を取るように,律法によって命じられています。

※ レビ人・・・族長の一人 レビの子孫で祭司階級。そのうち 祭司がレビ族のアロンの子孫に限定されるようになった。それからは,アロンの子孫である祭司より,レビ族の人々は下位となり,宗教的公務を果たす階級となる。

神殿での奉仕,民の教育を担う。土地は与えられず,町に分散して住み,その町の他の部族の人から農作物と家畜の十分の一を受けて生活していた。

例えだけど,アロンの子孫が,日本で言えば祭司職を司るものの頂点の天皇,レビ族が,戦前戦中 昭和初期までの 寺の和尚とか 神主 お坊さんみたいな役割,そしてその子ども 孫 子孫がそれを受け継ぎ継承していく,と言えばわかるかな。※

ところで,

レビ族の子らの中で,祭司の職を受ける者は,同じアブラハムの子孫であるにも関わらず,彼らの兄弟である民から十分の一をとるように,律法によって命じられています。

それなのに,レビ族の血統以外の者が,アブラハムから十分の一を受け取って,約束を受けている者を祝福されたのです。

さて,下の者が上の者から祝福を受けるのは当然のことです。

ところで,もし,レビの系統の祭司制度によって,人が完全な状態に達する事ができたとすれば➖というのは,民は祭司制度によって律法を与えられているのですから➖いったいどうして,アロンと同じ祭司職ではなく,メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。

祭司職に変更があれば,律法にも必ず変更があるはずはずです。

このように言われている方は,誰も祭壇の奉仕に携わった事のない他の部族に属しておられます。

というのは,私たちの主がユダ族出身である事は明らかですが,

この部族についてモーセは,祭司に関する事を何一つ述べていないからです。

この事は,メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられた事によって,ますます明らかです。

 この祭司は,肉の掟の律法によらず,朽ちる事のない命の力によってたてられたのです。

何故なら,「あなたこそ永遠に,メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。

その結果,一方では以前の掟が,弱く無益なため廃止されました。

➖律法が何一つ完全なものにしなかったのです➖

しかし他方では,もっと優れた希望がもたらされました。私たちはこの希望によって 神に近づくのです。

 また これは誓いによらないで行われたのではありません。

レビの系統の祭司たちは誓いによらないで祭司になっているのですが,

このかたは,誓いによって祭司となられたのです。

神はこのかたに対してこう言われました。

「主はこう誓われ その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である』」

 このようにして イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。

また,レビ族の系統の祭司たちの場合には,死というものがあるので,務めをいつまでも続ける事が出来ず,多くの人たちが祭司を任命されました。

しかし,イエスは永遠に生きているので,変わる事のない祭司職をもっておられるのです。

それでまた,このかたは常に生きていて,人々のために執りなしておられるので,ご自分を通して,神に近づく人たちを 完全に救う事がおできになります。

 このように,聖であり,罪なく,汚れなく,罪人から離され,諸々の天よりも高くされている大祭司こそ,私たちとって必要な方なのです。

このかたは,他の大祭司のように,まず自分のために,次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。

というのは,このいけにえはただ一度,ご自身を献げる事によって,成し遂げられたからです。

律法は 弱さを持った人間を大祭司に任命しますが,律法の後になされた誓いの御言葉は,永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。

ー黙想ー

この箇所は,ユダヤ教のエリートだったパウロが回心して,イエスを主と認め,十字架につけられて死に葬られたイエスが復活し 今なお生きている そして あらゆる地上の祭司らよりも優れており,高いところにおられる方なのだと皆に教えている場面。

果たして,パウロのこの説教を 当時 何人の人がその場で理解していたのだろう。

イエスの聖霊を受けている人々 信者らには理解できただろう。それは 真実だから。聖霊を通し 秘蹟を通し 働いておられるのを知っているから。

それは2021年の今なお,そしてこれからも永遠に在り続ける 尽きる事のない泉のようなもの。

 ところでここにたびたび出てくる「律法」について。律法とは イエスが生まれるはるか昔 モーセの時代に遡る。

神が人類に与えた愛 神の意志による教えと戒めのこと。神や他人に対する義務を規定したもの。

そして 厳しい罰があった

十戒(十のことば・モーセの十戒)

そのうちの

6 殺してはならない

7 姦淫してはならない

8 盗んではならない

9 隣人に関して偽証してはならない

10 隣人の家を欲してはならない 隣人の妻,男女の奴隷,牛,ろばなど,隣人のものを一切欲してはならない

昔 宣教時代,これらを受け入れられない殿 領主 親方 大地主らは ならず者らを使いキリストを迫害した。また 宣教師 信者らを迫害した。

多分,全部心当たりがあったんだね。まずいよね そんな掟。そんなものを広めたら立つ背がない 赤っぱち その地で偉い者のはずの自分が 罪人にされてしまう。そりゃあ 慌てたよね。

何か思い違いをしていたようだ。すでにキリストもパウロも 人間は弱さをまとい 罪から離れるのは難しい事と知っており それを皆にも話していた。完全で完璧なのは イエスで十分であり 神の子イエスだからこそ可能だったのだ。

戒めは 人を縛るためのものではなく 人を自由にするものだ。罪を犯さぬように 犯してしまったのなら赦しを乞い願い 回心しなさい というもの。

例えば,「いじめなど起きない」ではなく,そもそも「人が集まればいじめは起こりうるもの」といえばわかるかな。人間に完璧な神のようなものを求めてはいない。むしろ 愚かで すぐに罪を犯す者なのだ。だからこそ 戒めを置く。

そんなはずの 掟だった。この十戒がなかったならどうだろう?

おそらく 争いは絶える事がなかっただろう。本来 それを避けるために 神が人類に与えた愛だった。

それなのに,いつの間にかそれは 罰 が主役になった。報復を正当化するものに 血を血であらう 人間を堂々と殺すために,隠蔽のために リンチを正当化するために そうしたいがために 残酷を正当化するために,

あとの人間らによって変えられてしまった。それは今なお 旧約の世界には在る。

そこにイエスが天から派遣されてきたのだ。

そして彼は祭司職の家系・アロンのレビ族の部族ではなかった。

パウロが言っているのは,モーセに与えられた過去の律法は完全ではなかった。何故なら 人間によって変えられるものだったから。誤った 自分勝手な使われ方がなされるようになってしまったから。

そのため レビ族の祭司職の家系ではない

イエスという大祭司によって 新たにされたのだ という事。

そして諸々の祭司職を司る者たちの中で 最も 上にいる方なのだとという事。地上の部族など 関係なく。

地上で祭司職をしている者たちはいつか時がくれば死ぬ。しかしイエスは 聖霊を通し いつまでも永遠に生き続け 肉体はなくとも 霊の働きによって 大祭司として働いておられるという事。

そしてわたしは,他の国や,違うキリスト教共同体を知らない。多分 かなり違う。

同じキリストを信じる者でも,日本人と彼らの手法、考え方、宣教方法は かなり乖離している のかもしれない。

恵みあふれる聖マリア

主はあなたとともにおられます

あなたは女のうちで祝福され

あなたの子 イエスも祝福されています

神の母聖マリア

罪深い私たちのために

今も死を迎える時も

神に祈ってください アーメン

ー長い長い道のりー希望を捨てずー

作成者: sumiremama

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