唯一無二

大勢の群衆がイエスと一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。

ルカによる福音書 14章25〜




イエスの父 労働者ヨゼフも、母マリアも、敬虔なユダヤ教徒だった。神の教えを守り ユダヤ社会の律法を守り、罪を避け生活していたでしょう。

しかしその律法による社会では、地上に神の愛を実現する事は困難だった。

例えば、姦通、売春婦の場合。女は石打ちの刑、つまり男たちがそうすると決めたら、その女は見せ物にされながら死ぬまで皆に石を投げられる。

それが神の御心であり、神が与えた掟なのだと。内心、神などいないと思っている無神論者らと共に。

売春婦らは殺してもいい存在ということ

人々のストレス発散、嫉妬、憎悪、口封じ、自分が罪に定められないために、自分が安心するために 自分の家庭が平和であるために。

しかしその女性たちは、好きでそうした仕事をしていたのか。

そうではない事をイエスは知っていた。

そして人々の不満や怒りやエネルギーの矛先が、自分たちに来ないように 神の掟を利用している者たちがいる事も イエスは知っていた。

例えば、このように、「神が人を愛し それゆえ与えたはずの掟や決まり事」が、時を経て、

人間たちの欲望や我儘 自分本位 残酷さ 凶暴さによって歪められ、利用され、殺人も正当化されていた。神という存在を信じていない者たちとともに。

なんでも神のせいにし、掟を免罪符に 弱い者たちを虐待する社会になっていた。

我が身可愛さに。

つまり、

どっぷりその中にいたら それが当たり前の社会であって、

「それは違う」神の愛はそういうものではない、というイエスについて行くなら、家族はとめるであろう。

神の神殿である 誰もが祈れるはずの聖所が分け隔てられ、人々の生活をかえりみない 殺されゆく人々を心にもとめない者たちに支配されているなら、これを明け渡すよう要求する神。

からみつく者たちをふりきって、イエスについて行く覚悟がないなら、弟子にはなれない。

なんせこれから、その神殿に向かうのだから。

そしてイエスは決して強制しない。

去るものを引き止めない。

なんなら家に帰るよう薦める。

万軍の神に対し、名誉と地位と手下と、立派な神殿や衣裳 兵や財、安全という生活を持つ彼らは、それらを一切棄てる覚悟を持って、和を求めるだろうか。

彼らは神との和解を求めるだろうか。

イエスについてくるのは自由であるが、それだけでは「弟子」とは言わない。

あの時代、あの時、

神に遣わされた人、神の子 イエス。

後にも先にも、二度とはない。

唯一無二。

いつの時代であろうと、偽預言者 偽メシアに騙されぬように

父と子と聖霊の御名によりて アーメン